Joji YUASA’S THE 70TH BIRTHDAY CONCERT LIVE 1999

湯浅譲二: 生誕70年コンサート・ライヴ

湯浅譲二: 生誕70年コンサート・ライヴ

安田謙一郎(vc)
野平一郎(pf)
溝入敬三(cb)
木ノ脇道元(fl)

MSCD-0010 ¥1,980

「レコード芸術」特選

現代音楽の巨星、湯浅譲二の70歳の誕生日を記念して開かれたコンサートライヴです。日本を代表するソリスト陣による白熱した演奏は、まさに手に汗を握るスリリングな名演として、当時絶賛されたものです。1999年8月12日、東京オペラシティ・リサイタルホールにて収録。

~湯浅譲二氏から皆さまへ~

かつての僕が教え子たちが集まって開いてくれたコンサートのライヴです。限られた曲目の中で僕の代表作といわれるものが、第一級の演奏家たちによって演奏されていますが、やはりライヴ演奏ならではの「音楽の熱気」というものが伝わっており、大変素晴らしいCDになっていると思います。

録音:1999年8月、東京オペラシティ・リサイタルホール プロデューサー/エンジニア: イシカワカズ

ライナーノーツ 全文 Liner Notes Japanese text only

ピアノのための<内触覚的宇宙> (1957)
Cosmos Haptic for piano (1957)

1957年、実験工房の発表会で園田高弘氏により初演された。1954年から12音技法によって作曲しはじめたが、やがて、それが根本的に西欧的土壌によってのみ成立することに気付き、それを捨て、原点復帰を志した作品である。曲は数種のモード (旋法) によって、5つの部分からなっており、それらが <絵巻物> 的に繰り広げられる構造を意識的に目指した最初の作品でもある。基本的には拍が存在が潜在するが、同時に、 <息> すなわち <気> に基づく東洋的な時空が構想されている。私はここで、宇宙と人間の交感にある、最も原初的でヴァイタリスティックな、一種の宗教的感動を内包する世界をイメージした。宇宙という非人間的世界を人間が相対化したとき、初めてそこに原始宗教が発生したように、そこには、人間の根源的な感動を惹き起こす世界があり、音楽の出発点がそこにあると思ったからである。内触覚的 Haptic という言葉は、ハーバート・リードの著作『イコンとイデア』に依っており、原始洞窟絵画などに見られるように、外的な観察よりむしろ、内的な体細胞的 (ソマティック) な感覚によって、フォルムを描きとっていく型の芸術を表現するために使われている。したがって、この曲は私にとって、発生に立ち帰って音楽創造の根源を問う、アーケオロジックな態度を宣言する第一作になっていると言える。

コントラバスのための<トリプリシティ> (1970)
Triplicity for contrabass (1970)

この曲は1970年、著名な米国のコントラバス奏者、バートラム・テュレツキーのために書かれました。曲はグラフィックな譜面で、奏者に任せられる即興的部分を含みながら、三人のパートに書かれていますが、あらかじめ2,3のパートは同一奏者によって、テープの左右に録音され、1のパートが生で同時に演奏されるという、いわゆるソロ=アンサンブルのかたちがとられています。題は「三位一体」という意味ですが、キリスト教的なものではなく、同じような性質のものが、あつまって一体となる。つまり、音楽的な形をとって存在となるという、いわばフォーメーションが発想のポイントだったのです。初演はハワイ今世紀芸術祭で、再演はカリフォルニア大学サンディエゴ校でテュレツキーによって行われました。
※今回はナマ演奏する溝入さんに合わせて、左右のスピーカーから出るコントラバス2番、3番も、溝入さんによって新たに録音されたものが使われた。

ピアノのための<オン・ザ・キーボード> (1972)
On the Keyboard for piano (1972)

この曲は題名の示すように、鍵盤上のみの奏法によって(私も度々作曲している現代ピアノ奏法とも言える内部奏法をここでは使用しないという意味である)私にとってのピアノ曲の新しい世界を拓こうとしたものである。又この題名は、内部奏法に否定的である日本の楽壇に対する皮肉もこめられている。したがって鍵盤上の奏法には工夫がされており、ハーモニクスや打鍵直後のペダリングによるレゾナンス共鳴などが特徴的と言えよう。曲想としては、継起する音響エネルギィと時間軸との関係に焦点がおかれ、結果的に形成されるフォームが、スタティックと可塑的プラスティックとの間で変貌していく。曲の終わり近くに、ピアノ曲の眞の天才作曲家、Chopinへのhomage、またそれを引用しながらアルロトロピイという傑作ピアノ曲を創った松平頼暁氏へのhomageとして”雨だれ”の音形が現れ、それが冒頭からの動機となっている連打音へとつらなり曲を閉じる。

独奏フルートのための<ドメイン> (1978)
Domain for solo flute (1978)

この曲は、私の親しい友人であり、最も信頼するフルーティスト、小泉浩氏のために作曲し、彼によって初演された。小泉氏の卓越した技術と音楽性に触発され、同時に挑戦しながら、それによって、おこがましくもフルートの「領域」の拡大を図った曲とも言える。それは、時空の構造と特殊奏法を含む拡張された表現性を綜合しようという試みでもあった。構造的には、冒頭から始まる間歇的な、いわば不整脈的な性格Aと、連続的な、やや能管を思わせるフィギュア<手>Bが、交互に出現してくる。そして随所に中音奏法、特殊なアタック、また、タンギング、そして、ホイッスルトーンによる旋律線など様々な奏法も交えながら、断続的な性格Aは次第に連続的な性格Bに支配されて、終結部のいわば最もフルートらしい連続的な旋律線へ達する。一方、視点を変えれば、この曲全体を通して、私の不断の関心である<時空のプラスティシティ・可塑性>と、日本の伝統を支える時間、特に能的な時間へのかかわりが映し出されていると言えるだろう。つまり、独奏曲でありながら、この曲は、私の音楽の本質的な性格、人類が共有するユニヴァーサリティ・普遍性と、日本に生まれ育ったインディヴィデュアリティ・個別性が綜合されていると言う意味で、今回のプログラムに選んだわけである。[Music Today ’92「湯浅譲二作品演奏会」プログラムより転載]

アルト・フルートのための<舞働Ⅱ> (1987)
Maibataraki Ⅱ for alto flute (1987)

この曲は赤尾三千子さんの委嘱によって、2月下旬に完成しました。以前から能管による曲を書きたいと思っていたが、赤尾さんという名手のために作曲する機会を得たことは大変嬉しい。能管は楽器としてはプリミティヴではあるが、能楽の中で洗練されて来た歴史を持っている。私は楽器に内包される本来的な性質を出来るだけ生かして作曲することが、私の日本人としての自己証明的な伝統を敷衍することだと思った。私は伝統とは基本的には現象の末端にある具体的なもの、例えば音階などにあるというよりは、それを生みだす思考の構造にこそ存在すると思っている。しかしそれは楽器特有の音のジェスチャー、身振りなどを軽視することではなく、むしろ洋楽のゆに和声構造を持たない故に、そうした細かいジェスチャーが装飾的な意味ではなく、本質的な音楽的情報を根幹として負っているものと思っている。その意味でこの曲の身振り的な音、又は時間の構造に私の伝統を敷衍するものを記した。又この曲は能管以外にもアルト・フルートによって奏されることが可能である。

チェロとピアノのための<内触覚的宇宙Ⅳ> (1997)
Cosmos Haptic Ⅳ for cello and piano (1997)

ちょうど40年前にピアノのための内触覚的宇宙を書いてから、第2番・変容(ピアノ・ソロ)、第3番・虚空(二十絃と尺八)そしてこの曲である。「内触覚的」という言葉は、ハーバート・リードの著書『イコンとイデア』から引用した。リードによれば、新石器時代になって、ヨーロッパの美学の規範となった<シンメトリー>の概念が現出してくるが、それ以前の旧石器時代時代のロスコーやアルタミラの洞窟絵画では、そうした美的規範によらず、内触覚的に宇宙が把えられていたと言う。私は20代の時から音楽の発生してくる場や、イメージを、人間や文化の発生時点に求めて来たので、音楽の進化の歴史を踏まえた上で、それに把われない音楽を作って行こうとする態度が、この題名を選ばせている。チェロとピアノのデュオと言えば、両者が殆ど絶えず均等に音楽を作って行くのが常識だろうが、この曲では、それにもこだわらないことにした。チェロとピアノがそれぞれの特性を主張し、時にはアンサンブルともなる。形態的には、構造的な部分を、不定型なアモルファスな動きが、交代する形をとっている。内触覚的宇宙という原初的な世界が、そこに発生する祈りや呪術という人間と宇宙の交感を内包していても不思議はない。